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木曾義仲と宮崎太郎

1,183年(寿永2年)5月11日、越中と加賀の国境、俱利伽羅峠(砺波山)で、木曾義仲率いる源氏軍のなかに、宮崎城の城主宮崎太郎長康をはじめとした越中武士団がいました。俱利伽羅峠の戦いの計略を義仲に提言し、正にその時!平維盛率いる平家方が休んでいるなか、背後の山に進軍!奇襲「火牛の計」にて一氣に夜襲をかけました。平家軍は、まさかの攻撃に大混乱!!逃げ場なく深い谷底へと落ちていきました。その軍兵の数18,000と伝わります。源氏軍圧倒的勝利!蟹谷次郎の源氏太鼓が鳴り響きます。平家軍が落ちていったその深い谷を「地獄谷」と呼び、その多くの屍から流れ出た膿が流れる川を「膿川」と呼び、現在も地名として存在しています。さて、宮崎太郎長康は、現在の富山県朝日町にて山城の宮崎城を築城し拠点としていました。義仲は、宮崎太郎長康に平家追討の為に挙兵した以仁王の第一皇子「北陸宮」を預け、護衛させました。何故!?「北陸宮」を宮崎氏に預け、護衛させたのか?次回に続きます。