さて今回は思い込み!の3.という事で平成25年4月11日(木)北日本新聞の社会面(33)から転載したいと思う。いつも北日本新聞の社会部・浜田泰輔記者の記事は私の心に優しく留まる。
(転載開始)
13年分の「ありがとう」
交通事故で脳に重い障害を負い全身の自由を奪われた富山市の刀野吾朗さん(30)が13年ぶりに言葉を取り戻した。重い意識障害がありながら文字をつづれるようになり、本誌連載「ずっと伝えたかった」で紹介した中島基樹さん(31)=高岡市=の自宅を家族とともに訪問。手を支えてもらって筆談する方法を教わった。首の動きで「はい」「いいえ」を伝えられるにもかかわらず、医療スタッフから言葉での意思疎通は難しいとされてきた刀野さん。最初に記した言葉は「ありがとう」だった。
~ずっと伝えたかった~
「じゃあ、やってみよう」今月6日、家族と一緒に訪ねてきた刀野さんに中島さんの母、依子さん(62)が優しく声を掛けた。
ベッドに横になった刀野さんの右手にペンを持たせると、自らの手を添え「言いたいことはある?」と尋ねた。
ノートの上でペンはゆっくりと動いた。
<おかあさん ありがとう>
満面の笑みを浮かべる刀野さんを見た母の直美さん(62)は涙を抑えられなかった。
重度障害の刀野さん(富山)
本紙きっかけ 家族と筆談習う
2004年4月刀野さんはバイクを運転中に乗用車と衝突し、頭を強打。搬送先の病院で「2、3日の命」とつげられた。奇跡的に一命を取り留めたものの、意識のもうろうとした状態が続いた。
肺炎を防ぐため医師は鼻からチューブで栄養を送る方法を薦めた。だが直美さんは口からの食事が回復の早道と考えた。手作りの料理をミキサーにかけて流動食にし、わずかに動く右手を介助して食べさせた。建築資材の販売店を営む傍ら朝夕2回病院に通い続けた。回復の兆しが現れたのは事故から1年後のこと。見舞いに来た友人を見て刀野さんは「ふふっ」と笑った。その後首を振って「はい」「いいえ」を伝えられるようになった。
回復が進むにつれ、直美さんは言葉でコミュニケーションを取りたいと考えた。しかし、病院スタッフは意思疎通を補助する福祉機器の操作は難しいとし、試すことはなかった。直美さんもそれを受け入れてきた。
13年ぶりにペンを握った刀野さんの右手は力にみなぎっていた。家族は代わる代わる刀野さんの手を取り”会話”を試みた。兄の洋輔さん(35)が手間取ると<おにいちゃんはだめ> <つかれた> と記した。素直な言葉に家族は笑いに包まれた。そばで見ていた中島さんは<ごろうくんうれしいです ほんとうによかった>とつづった。本紙が連載して以降、刀野さんのように重い障害のある人を介護している家族から「思いを知る方法を教えてほしい」という相談が、中島さん一家に次々と寄せられている。意思疎通の手段はないと思いこんできたケースばかりだという。直美さんは言う。 「わずかな希望を持つことすら諦めている家族がたくさんいる。 今伝えたいのは『絶対に無理』と言うことはないということです」
(転載終了)
医療スタッフから言葉での意思疎通は難しいとされてきた刀野さん!然しだ。その時は、医療スタッフが伝えた通りだったのかもしれないが人間には可能にする力を持っている。可能性があるのだ!
人は思い込みをよしとする傾向がある!!ちょっと待ってほしい!
中島さんや刀野さんが10年以上も耐えてこられた今!思い込みを考え直す事の証左である。と私は強く思う!
(追記)
北日本新聞の記事によって救われた方がひとりふたりと確実に増えてきている。共にこの素晴らしい!温かく優しい気持ちを共有できる事を心から嬉しく思います。
北日本新聞社のみなさん。そして社会部の浜田記者さん。転載させて頂きありがとうございます。
刀野さん 中島さん 本当に良かったですね。(安堵)