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人日の節句。(じんじつのせっく)

今日、正月七日は『人日の節句』であります。五節句の最初の節句であり七草粥を楽しむ日でもあります。

 

『人日の節句』は、厄払いと一年の無病息災を祈願する日で万病除けと邪気払いに良いとされる七草粥を頂き、その味覚を楽しむのです。正月七日の朝に七草粥を食べると、その年は病気にかからず寿命ものびると言われます。若菜を食べる事によって生命力を身体に取り込む呪術的意味合いが深いとされますが、迷信ではなく医学的にも効能があることがわかりました。

 

一月の味覚の代表『七草粥』の素材は『春の七草』せり、なずな(ぺんぺん草)、ごぎょう(母子草)、はこべら(ハコベ)、ほとけのざ(コオニタビラコ)、すずな(蕪)、すずしろ(大根)で、その効能を調べてみました。

 

せりの効能 健胃、食欲増進、解熱、利尿、去痰など

なずなの効能 止血、消炎、鎮痛、利尿、解熱など

ごぎょう(母子草)の効能 咳止め、扁桃腺炎の予防、利尿など

はこべらの効能 利尿、歯痛、消炎など

ほとけのざ(コオニタビラコ)の効能 健胃、食欲増進など

すずな(蕪)の効能 消化促進、解熱、咳止めなど

すずしろ(大根)の効能 消化促進、咳止め、利尿など

 

お正月のごちそう三昧で疲れた胃腸には『七草粥』なら消化にも良く、青物が不足しがちな冬にビタミンや葉緑素を摂って病気を予防する効果もありそうです。

        (年中行事を五感で味わう 山下柚実 著より)

 

知らず知らずのうちに何故か、しきたりとして行なっていることは日本人だからなのです。古式に則り生きていくのは、日本人としての美徳であると信じています。(礼)

 

 

 

 


ひみぼうず!

先日、氷見ブリで有名なひみ番屋街に行ってきました。我が家では、出汁は本物しか口にしないので、煮干しや昆布には力を入れてます!(笑)

 

お店にも拘りがあり、使ってみて判断しています。やはり日本人が古来より長きに亘り使っているのには理由があるのです。

 

美味しい出汁の出る煮干しと、氷見で取れたイカの一夜干しを購入して外に出ると子供たちが戯れている!その中心には何ともいえない海坊主!じゃなかった!?ひみぼうずくんがいた。(笑)

 

ひみぼうずの生みの親は、漫画家の藤子不二雄Aさんで富山県氷見のご出身です。至る所で可愛いキャラクターが出迎えてくれるので

楽しめると思います。

 

世界遺産五箇山の南砺市から氷見まで、城端線と氷見線がつながる事でもっともっとたくさんの方々がいらして楽しみ喜んで頂きたいと僭越ながら富山県民のひとりとして願っています。    拝、

 


天神講(てんじんこう)を考える。2

左の菅原道真公の掛軸は、僕の為に祖父が描いてくれた宝物です。母の父城寳清太郎

(清芳)の作品で、幼少より「勉学に励み立派になりなさい」という、祖父の思いが

込められているのを感じたものです。

 

もう少し励んでいればよかったのかなあ?と反省し頭を掻いている次第です。(笑)

毎年そんな事を繰り返すも齢50をとっくに過ぎてしまって反省にも年季が入ってしまいました。(大笑)

 

前回の『天神講を考える』では自論を含めて書かせてもらいましたが、やはり越前、越中(福井県、富山県)の人ならば、日本全国で行われている行事だと未だに信じていると思います。

 

経済におけるブラックスワンにも似た「エエ~ェッ!?」という感じでしょうか?いや、何も失う物は無いので違うかな・・・?

とにかく思い込みが吹っ飛ぶ感じですね。

 

教育熱心な越前藩主松平春嶽公が勧めた事が、越中富山の薬売りによって広がった。という説もあるということで、僕はそれをも認めた上でもう少し自論を書いてみようと思います。

 

越中富山の薬売りの仕事は、只単に売薬のみならず諸国の情報を集めるに容易く、表の仕事有れば裏も有りであっただろうと推察しています。広めれば広めるだけ富めるはずなのにそうはしなかった。そんな事よりももっと重要な仕事を担っていた。

 

15・6世紀より以前は薬と云えば修験道の話になると思います。越中富山は立山があり修験道と売薬は深い繋がりを僕は感じるのです。やはり都からの密命を受け守護する為に、越前と越中を中心に天神信仰を広めたのだろうと。

 

都を。いや、言い方を変えれば、この国を守護する為にそうしたのではないだろうか?と思うのです。

 

臥牛においても、道真公と切っても切れない結びつきをもって犠牲の犠、牛偏に義であり、牛と道真公を一緒にして義を付ける。即ち

道真公には非は無く、義があることを皆が存じております。と・・

 

神道においては、伝説的であったりと比喩的表現がいたるところに鏤められており、またヒントもその中にあったりと普通に考えてもなかなか分からぬ様になっており、普通でない僕の頭には、どうも引っ掛かるようなのです。(笑)

 

色々と書きましたが、あくまでも自論を展開した迄であり、益々色んな方々とお会いしてお話を聞かせて頂こうと思っています。もしよろしければコメントやご連絡をこころよりお待ちしております。

                            拝、

 

 

 

 


越中一宮に参拝して。

今日は、いつもお世話になっている富山県南砺市に御鎮座になります高瀬神社に参拝してきました。

 

晴天に恵まれ、初詣の参拝者で賑わいを見せていました。日本人として、一番日本人を感じるのがお正月なのですから。

 

何にも考えないでいてもお正月には「あけましておめでとうございます。」と挨拶を交わし、神の前にて手を合わせ、仏の前にて手を合わせる。それが日本人の習慣であり、当り前の行事なのです。

 

何故そうするのか?大半は僕も含めてあんまり分からないままに行なっているのです。これが、日本人としての仕来たりなのです。

日本人として仕来たりを大切に生きることは忘れずに生きたいものです。


何故!巳いさんが?

左の巳いさん(蛇)は、友人宅にお出ましになったものですが、昨年の12月31日に発見し、その時は只々ビックリしてそのままにし、昨日の1月2日に再びお出ましになられた処を撮影したものです。北陸の冬は寒く、巳いさんがいるはずがないのです。本当に不思議であり、何か良い事でもあるのかな?とか

都合のいいように考えています。

 

然し、冬の時期に巳いさんが出てくるはずがない!っていうのは、単なる思い込みかもしれず、また良い事があるかもしれないって言うのも同じなのかもしれませんね?

 

だけれども、これは吉報であると思い込んで、僕たちだけではなく拙ブログをご覧になってくださる方々に吉をお運びしたいと思います。良い事は独り占めになどせず、多くの人たちと喜びを共有したい!これが当院の僕たちの考えであり信念です。

 

これからも良い情報はドンドン発信したいと考えています。

今後ともよろしくお願いいたします。(礼)


誉建神社元始祭。

新年二日目の今日、誉建神社元始祭に行ってきました。厳かに巫女舞いの奉納のあと、厄年の身祝いがあり

殿(しんがり)に柴田接骨院のお祓いを賜りました。(礼)

 

直会では、河合宮司さんに伊勢神宮御遷宮のお白石持ち行事の御礼かたがた熱く語り、一献傾けて参りました。本当にありがとうございます。(礼)

 

本年も全身全霊で、すべての痛みを対処していきたいと強くこころに留めた次第です。

 

当院とこのブログが一考一助となれるように・・・・・・・。  拝、

 


あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

 

左の正月飾りは、患者様からこころを込めて当院に送られた宝物です。

すべて手作りの作品なのです。

 

お隣の地区の大島さんの本当にこころの温まるお飾りであります。当院としても、これだけのお飾りは勿論目にした事はなく、夫婦で胸熱く感動し胸いっぱいになりました!ありがとうございます。(大島さんに心より感謝致します)

 

富山県神社庁より大麻を頂きましたが、平成二十六年の指針として明治天皇御製がございました。新年に当たり謹んで引用転載させて頂きます。(礼)

 

(皇紀2674年)平成26年甲午(きのえうま)

          『明治天皇御製』

            巖 上 松

     あらし吹く世にも動くな人ごころ

               いはほにねざす松のごとくに

 

「解釈」

たとえ、どのように嵐が吹きすさぶはげしい世の中の変動にあっても、あの巖の上に、どっしりと根を張っている松の大木のように、しっかりとした信念を持って、心を動揺させてはなりません。

 

年頭に当たり、このような御製を拝し、こころに留め置かなければと思います。昨今の世界や日本の情勢を考えてみると、さもありなんと感じるのです。

 

どんな変動であろうとも落ち着いて、動揺せず信念を持って対処したいと思う次第です。

 

今年も何卒よろしくお願いいたします。      拝、

 

 


おかげさまで。

平成25年も、本日をもって最終の美を飾り、翌年へと移っていきます。何時も変わらずそうであり、変わるのはひとの正月に対する思いでしょうか?

 

今年も本当にお世話になりました。

こうしてブログを始めて、たくさんの方と知り合うことが出来ました事は、僕のこころの財産、いや宝物になりました。

 

ブログによって、こころが通じ合う事の温かさや喜びを知る事のすばらしさ、力、をしみじみと感じました。

 

皆さま!今年一年、拙ブログをご覧いただき本当にありがとうございました。来年度も何卒宜しくお願い致します。

 

おかげさまで。  拝、

 


天神講(てんじんこう)を考える。

もう幾つ寝るとお正月~♪っていう感じになりました。お正月にはお飾りはもちろんのこと天神様(菅原道真公)をお祀りして

1月25日に天神講となります。北陸富山では、当たり前に行われる祭事として厳かに守っており、日本中で行われている!と思っていました。然し!北陸の越前と越中だけ、ようするに福井県と富山県だけだと知ってボー然!?これは本当にびっくりして!出てきた言葉が「えっ!そうなの?」でした。これは多分なのですが福井と富山の両県のひとはみ~んな、そう言ったと思います。また、1月25日の天神講でお供えするのが福井県では焼きカレイと決まっているそうなのですが、こちら富山県では尾頭付きが定番で鯛や甘鯛、鰤に鰯、はたまた蟹やら烏賊など食べたいものをお供えしています。各家庭によってマチマチなようです。(笑)

 

両県にわたる根強い思い込みは、近年!テレビのクイズ番組によって外されたようである。この件はテレビ番組に感謝せねばならないですね!(礼)一つ思い込みを外せました!ありがとう。(感謝)以下『ウィキぺディア』より引用します。(チョット長いですのでお急ぎの方はスルーしてくださいね)

(引用転載開始)

 

本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、菅原道真が死後、火雷天神と呼ばれ雷神信仰と結びついたことなどを由来とし、道真の神霊に対する信仰もまた天神信仰と称するようになった。

 

(歴史)

藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。彼の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た。(清涼殿落雷事件)これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。

 

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には火雷天神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。道真が亡くなった太宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮が建立された。また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立された。987年には「北野天満宮大神」の神号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。平安時代末期から鎌倉時代ごろには、怨霊として恐れられることは少なくなった。この時代に書かれた『天神縁起』によれば、この時代には天神様は慈悲の神、正直の神として信仰されるようになっていた。江戸時代には、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、天神は学問の神として信仰されるようになった。元々の火雷天神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり雨は農作物の生育に欠かせないものであることから農耕の神でもある。各地にも火雷天神と同様の伝承とともに天神が祀られていたが

火雷天神が道真と同一視されたことから、各地に祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。天神(道真)を祀る神社は天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州や西日本を中心に約一万社(岡田荘司らによれば3953社)あって分社の数は第3位である。

 (発祥の地)

北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものでありどちらかがどちらかから勧請を受けたというものではない。そのため、北野天満宮と太宰府天満宮では「総本社」「総本宮」という呼称は用いず、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。

 

(各地の天神信仰)

北陸、福井県や富山県では、長男が誕生するとそれ以後の正月、床の間に天神像(木彫や掛け軸)を飾り、福井では1月25日にカレイを供える風習がある。この掛け軸などは、母方の実家から送られる。これは幕末の頃に教育熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、石川県など前田藩の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。前田家は菅原氏の出を称しており、家紋が天神の神紋と同じ梅鉢紋であるのも、そのためとされる。ちなみに前田家の家紋は「剣梅鉢」と呼ばれている。

 

広島県北部

 子供の初節句に天神像等の人形を贈る。三次人形を参照。

 東京板橋区

 関東最古の天神信仰である。梅木の霊力で疫病が退散し梅木を祭祀し天神信仰が始まった。

 (天神信仰と数字)

菅原道真を主祭神としている神社では、道真の誕生日と命日がともに25日であったことから毎月25日を例祭としていることが多い。

江戸時代でも毎月25日は天神様の縁日であり、とくに旧暦1月25日を「始め天神」、12月25日を「終い天神」とよんで参詣したが、これは新暦に移行した現在でもそう呼ばれている。また江戸市中で道真を祀る25社を「江戸二十五天神」と称した。

 (天神信仰と牛)

菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真も牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。

 (引用転載終了)

 さて、これから一考して自論を展開することにします。あくまでも自論であることをお断りしておきます。藤原時平の陰謀によって、道真は左遷され、破竹の勢いそのままに出世街道を歩んできた道真を地のどん底に突き落とされました。いやがらせもここまでくると怖いもので、まるで犠牲である。疫病や清涼殿落雷事件は、犠牲者である道真の祟りだと権力者や人々が信じた訳は、その時代背景や陰陽道が深く関わっていると思われます。天神講として福井や富山に今でもお祀りし大切にしているのは、それに関係するものが多数移り住んだのか?もしくは怨霊封印の為に陰陽道の定めた方角がこの両県であったのではないかと僕は推察しています。右上の写真の臥牛は、菅原道真公と牛の縁もあるだろうと認めた上で、菅原道真公はある意味で犠牲となられたのだという暗示が込められていると推察するのです。牛偏に義と書いて犠牲の犠となります。牛イコール菅原道真公と考えれば道真公に非ではなく、義があった事を知っております。という暗示であると。神道に於いては、伝説的であったり暗示的であったり比喩的表現が鏤められていると感じています。新年に向かい改めて天神様をお祭りし1月25日の天神講まで菅原道真公に向き合いたいと思います。柴田家の天神様は母の父、日本画家である僕の祖父 城寳清太郎の僕への愛情一杯込めてくれた作品であり、最大の宝です。ありがとうございます。(礼)


一考すべき記事!

今日付けの北日本新聞(社会面)に『子宮頸がんワクチン』の記事が載っていた。先日も自論を書いていたので、正に一考する時期に来ているのだろうと思います。

 

あれこれとハッキリとしつこく書いてきたので、今回は書かない。僕が言うのでなく新聞に掲載されているのです。以下、北日本新聞より転載いたします。

 

(転載開始)

       接種呼び掛けの再開結論先送り

           子宮頸がんワクチン

 

 接種後に長引く痛みやしびれなどの副作用が報告されている子宮頸がんワクチンについて、厚生労働省の専門部会は25日、中止している接種の呼び掛けを再開するかどうかを検討したが、結論を来年1月にも開催する次回以降に持ち越すことを決めた。

 

(転載終了)

 

僕は、この事だけでも一考されるに充分だと思います。何も考えずに流されなければ今の生活が保たれるのだから・・・。(安堵)