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院長の四・五十肩の話!

日本全国に冬の嵐が吹きつけているようですね!超低気圧が北に居座り寒気が入り込み!そして猛吹雪。

 

このような冷え込みの強い日などは所謂!四・五十肩と言われる疾患である「肩関節周囲炎」を患っておられる方は、夜間痛などの『アノ何ともいえない疼きや激しい痛み』で、さぞかし苦しんでおられるのではないかと拝察いたします。

 

たくさんの医療機関を受診され!この言い方の判断はおまかせしますが「藁をも縋る思い」で良いと聞く度に幾つもの医療機関に足を運ばれていらっしゃったのではないでしょうか!?

 

僕が治療した患者さんで、一番長くお悩みだった方は何と!6年間という例がありました。骨折され固定する期間が長かったという事と、荒療治による!という要因も否定出来ないものでした。

 

40~60代!特に50歳を前後する方々に多く発症し、男女の差なく、右利きであれば左肩からが多く(当院のデータによる)何の誘因もなく徐々に、時には怪我(骨折、脱臼、捻挫、その他)がきっかけとなってやや急激に発症します。

 

院長である僕自身も47歳で経験しましたが、職業上是幸いと悪化させるだけさせてからの治療開始でしたので、今!つらい痛みに必死に耐えておられる方々にはお役に立てると存じます。

 

一日も早く『アノ痛み』から解放され!熟睡出来るように!僕的に良かった情報を紹介していきますのでよろしくお願いします。

すみませんが、次回に続きます。拝、

 

 

 

 


僕がウイスキーが好きなわけ。

毎夜、録画したNHK朝ドラを見て楽しんでいます。『マッサン』は、

日本のウヰスキーの父!と呼ばれた竹鶴政孝とスコットランド出身の妻

リタ夫婦をモデルにしています。

 

北日本新聞発行のまんまる1月号通巻128号より一部引用致します。

 

(一部引用転載開始)

 

  運命のスコットランド留学

広島県の酒造業の家に生まれた竹鶴政孝は学生時代から洋酒に興味を持ち、大阪の摂津酒造に入社した。やがて社長に認められ、大正

7年(1918)24歳でスコットランドに留学。グラスゴー大学に学び、蒸溜所で実地研修をして本場のウイスキー製法を体得していく。あるとき柔道の指導を頼まれ、訪ねた家で運命的にリタと出会う。リタは政孝の魅力にふれ、抱く夢を一緒に叶えたいと共に生きることを選び、周囲の反対を押し切って結婚。政孝は新妻と大正

9年(1920)に帰国。第一次大戦後の不況の中、摂津酒造はウイスキー製造を断念。政孝は辞表を出し、しばらく浪人生活を送った。その後、別の酒造会社に籍を置きウイスキー製造に貢献した。そしてついに独立し、自身が理想とするウイスキーづくりという夢を叶えるため北へ旅立った。

 

  夢を追い北海道余市町へ

北海道積丹半島の付け根、余市町。寒冷で適度な湿度があり、良質な水、ピート(泥炭)も豊富なその地で、政孝は昭和9年(1934)「大日本果汁株式会社」を設立。リンゴジュースなどを製造しながら、熟成に時間がかかるウイスキーの原酒をつくり続けた。そして昭和15年(1940)ついに第一号ウイスキーが誕生し「大日本果汁」を略して「ニッカ(日果)ウヰスキー」と命名した。終戦後の昭和24年(1949)に種類は自由販売となり、市場は模造ウイスキーで賑わった。しかし政孝は品質第一の姿勢を貫き、社員は強く結束して原酒を守りぬいた。

 

  受け継がれる品質主義

夫を「マッサン」と呼び、日本料理の名人にまでなったリタ。日本人よりも日本人らしく夫を支え、昭和36年(1961)64歳でこの世を去る。リタを失った政孝は貯蔵庫でテイスティングに没頭し、翌年選りすぐりの余市蒸溜所の原酒をブレンドした「スーパーニッカ」続いて「ハイニッカ」を発売。どちらも好評を得て「ニッカ」は全国ブランドへと成長していく。余市蒸溜所では今も石炭による直火蒸溜を行なっている。ウイスキーづくりの原点と、品質第一主義を受け継いで歩み続けるニッカ。晩年、政孝は病床でも水割りを飲み、まさに最後までウイスキーと生き、昭和54年(1979)85歳の生涯を閉じた。今は最愛の妻とともに余市蒸溜所を望む墓地に眠る。

 

(一部引用転載終了)

 

日本人より日本人らしいエリーことリタさんが亡くなって53年が経過しているのですね!?僕が生まれたのが昭和36年(1961)ですから暗算より容易いですね。それにマッサンと同じく柔道をしていたということ。^^

 

僕がウイスキーを好むのもマッサンとリタさんの意思を継いでいるのかもしれない・・・・!?「うん!きっとそうだ。そうに違いない」

 

「そんなわけないでしょ!」^^

 

  


ハッ!としたこと!

先日!従兄の嫁さんと話をした時に

「自分の携帯電話番号言える?」と聞かれ、妻共々「言えないっ!」とふたり一緒に叫んでしまいました。

 

長く使っている番号のはずが!?まったく覚えていないというこの現実!「携帯さえ、スマホさえ持っていれば記録してあるから大丈夫」とばかりに覚えようともせずに今日までのほほんと・・・。

 

何かあった時に!緊急時などで連絡をしたいのに携帯がない!電源が切れている!携帯の普及で台数こそ激減しましたが、公衆電話や人様にお願いして連絡をとるしかありません。

 

せめて自分や家族の携帯電話の番号を記憶しなければ!連絡が遅れるだけつらいものがあります。

 

「いやあ本当だなあ!?これはしっかりとしておかなければなあ」と従兄の嫁さんと話をして『ハッ!』としたことでした。

気をつけよう!じゃあなく記憶しよう。と思いました。^^


ひさしぶり~っ!

今日のお昼休みに!空を見上げて「ひさしぶり~っ!」と声をあげてしまいました。^^

 

寒気という名の将軍様が日本海側にいらしていた為に、鉛色の空と灰色の雪!(鉛色の空から降る雪は白く見えないから)少し、言い訳!

衆議院選挙も終わり、ちょっと一服!という方もようやく骨休めがお出来になるのではないでしょうか!?本当にご苦労様でした。

 

長きにわたり、低気圧によって上から押さえつけられていたので!今日の晴れ間は開放感をもたらしてくれました。敏感な方であれば「その通りっ!」とお分かりの事と思います。

 

つかの間ではありましたが、青い空と白い雲を目にしただけで何故か、こころにあった鉛色のものがスーッ!と雲散霧消したような気がして「ふ~っ」と大きく息を吐くのでした。^^

 

 


討ち入り当日!

城明け渡しより、長きにわたり秘めた思いを胸に愈々!今夜決行です。失敗は許されません!

 

左上の写真は、小屋に潜む吉良上野介を引きずり出し取り囲み、そしてご生涯を迫る一枚です。ここでも上野介は有るまじき行動に出て内蔵助の「卑怯!」という言葉と共に、ご主君最後の短刀にて胸を突かれ絶命します。まさか!こんなことになるとは思ってもいなかっただろうと思いますが、すべて自分自身が引き起こしたことであり自業自得!因果応報!と上野介も認めたことでありましょう。

 

映画では脚色されている場合が多く、討ち入りの装束も火消のいでたちが数名とあとはバラバラであったらしく、山鹿流の陣太鼓も実はドラであったのかもしれない!と聞いています。

 

しかし、赤穂事件は作り話ではなく事実あったものです。浅野長矩の他にも御馳走役をいじめていたという記録も残っています。師走に入り一年を振り返り!ひと様に気に障る言動がなかったか!?卑怯な振る舞いはなかったか!?立ち居振る舞いをもう一度厳しく見直すことの出来るように!『年末にかけての放送を復活させてほしい』と、討ち入りそばを食べ乍ら思っている次第です。拝、

 

 

 


討ち入り前日!

今日は討ち入り前日です。47名はどのような思いで過ごしたのだろうか?大石主税などはまだ16歳、矢頭衛門七18歳である。

 

「武士たる者は正にそういうものなのである」と二人の若者に一喝される53歳の今の僕がここに居るのでした。左上の写真から聞こえてくるのは!?「鬼さんこちら♪手の鳴る方へ♫」京都山科に住まいを移した大石内蔵助が、敵を欺く為に目立ち過ぎるくらいに遊ぶ姿を見せつけている一枚です。

 

それだけに止まらず大切な家族を守る為に、母様をはじめ奥様までも欺こうとする姿に涙が溢れ、胸の奥そこが痛みそして響きます。

自分自身に当てはめて見てみても果して出来るだろうか!?

 

大石内蔵助の同士の方々に対する立ち居振る舞いと思いやりのあまりにもの大きさに、日本人の真髄を見たような気がします。(礼)

 

愈々!明日討ち入りです。

 

 


討ち入り二日前!

今日は赤穂事件の二日前です。大石内蔵助の「大義ある討ち入りでなければならない!盗賊の如き襲撃であってはならない」の言葉に冷静さを取り戻した浪士一同は、当日その時まで只管!我慢したのです。

 

血気盛んの屈強な若者をここまで統制する城代家老大石内蔵助の人間性は、正にひとの上に立つに相応しい人物であることは日本中のひとが認めていると僕は思います。

 

47名に絞り込むまではアノ手コノ手で振り回し、篩に掛けて選りすぐりの同士を集めていく才能の凄さに、日本男児として何ともいえない胸の高まりを感じます。

 

幕府側用人柳沢吉保の歪んだ権勢は、家康公の定めた「喧嘩両成敗」をも歪めてしまう大失態!勘違いをした偽権力者は、お金によって身を持ち崩すのである。いつの世も同じなのかもしれませんね!(笑)

 

犬公方徳川綱吉と側用人柳沢吉保では、世の中を牽引するに相応しい筈もなく!今の世の中とも照らし合わせて考える必要がありそうですね!そう二日後に正にその時がやってくるのですから・・・。

 

赤穂事件も「いじめ」の一端から大事に発展したのかもしれず!また『塩』が絡んだのかもしれず!?喧嘩相手に「塩を送っておけば

良かったのじゃ」息子の上杉さんも後になって気づいたのかも!?

 

 

 

 


もうすぐ12月14日です!

もう少しで12月14日です。最近はあまり放送されなくなりましたが『赤穂浪士』『忠臣蔵』すばらしい日本映画が、毎年師走に入ると必ずあったものです。

 

元禄15年12月14日深夜に赤穂浪士47名が、吉良上野介邸に押し入り!上野介を殺害し、ご主君の仇を討った。という赤穂事件を映画化したものです。武士として!いや、日本人として今!最も学ばなくてはならないことがぎっしりと詰まっています。そのひとに応じた対応や儀礼など、守秘に至るまで、何が何でも屈しないこころ・・・。

 

今は衆議院選挙の真っ只中の為、14日の話題はそちらばかりとなっていますが、やはり!忘れてはならない赤穂義士の話をもう一度!いや毎年この時期に語り、日本人の大切なものを忘れないようにしたいと思います。

 

義士の中で足軽であった為に大石から別命を託された寺坂吉右衛門が討ち入り直前に逃亡したかつての盟友、瀬尾孫左衛門と16年ぶりに再会!孫左衛門もまた大石から別命を受けていた。という作品『最後の忠臣蔵』も、ひとの凄さを見せつけられる逸作です。

 

左上の写真は、江戸城西の丸大手門です。上に立つ者がしっかりと英断をしていれば赤穂事件は無かった。上に立てるひとをしっかりと見極めなければならない!ということなのかもしれませんね!?^^

 

討ち入りそばを啜りながら、改めて映画鑑賞しようと思ってます。

 

 

 

 

 


烏瓜(カラスウリ)!

今日の午前中に来院された患者さんが「先生の家に烏瓜があるでしょ?私に頂けませんか」と聞かれましたが、僕には何が何だか!?さっぱり分かりませんでした。^^

 

多分アレのことだろうと、ソレを指さすと見事!その通りでありました。柿の葉と実が寂しくなった頃から何故か目立つヤツがいる!細いツルからぶら下がるライスボウルのようなヤツ!烏瓜だ。

 

烏瓜の種子は、その形状が「打ち出の小槌」に似ている為、お財布に入れて富みに通じる縁起物として大切にされています。またそのエキスからしもやけの薬にもなるそうです。

 

烏瓜と言われるので!?カラスの大好物なのかとも思いましたが、そうでもないようです。たしかにカラスが食べる様子は見たことがありません。

 

患者さんに色々と教わりながら会話も弾み、氷点下を記録した朝から元気をいっぱ~い貰いました!ありがとうございます。^^

 

 


不思議な力!

12月8日から治療室の絵画を新調しました。射水市出身の宮脇春美さんのパステル画です。^^

 

「川面の光」と「湖畔」の2作品を柴田接骨院内に迎えて、気持ちも新たに患者さんを治療していきます。「雰囲気が変わりましたね」や

「何かすごく優しい気持ちが伝わってきます。この絵を描かれた方の気持ちというか優しさが何故か分かるような気がします」など!かけてくださる言葉に僕たちも感動して胸が熱くなりました。

 

作品には!作者の思いというか、集中したそのなかにこころが入ると聞いたことがあります。僕にはその真偽は分かりませんが、目にした方や周りの方に与える影響というか、こころの変化などを感ずるということは、正にその証左であるのかもしれません。

 

宮脇春美さんのパステル画には「何か不思議と優しさが増す力があるのかもしれない」本当にすばらしい作品をありがとう。こころからの宝物をありがとうございます。(感謝)