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越中一宮高瀬神社参拝。

今日は南砺市に御鎮座になります越中一宮高瀬神社に参拝してきました。たくさんの参拝者が整然と順番を待っての初詣!これぞ日本の素晴らしい国民性です。

 

家を出た時から雪模様でしたが、到着の際から快晴となり眩しくてサングラスが必要なくらいです!これは神様が祝福してくださっているのだと僕なりに解釈して、妻と共に太陽を見つめるのでした。


誉建神社元始祭参拝。

今日!二日は地元誉建神社元始祭という事で参拝してきました。今年も皆が健康で良い年でありますように祈念し、身祝い!地元企業へのお祓いがありました。

 

柴田接骨院は最後から二番目でありました。感激もひとしおです!すべてのお祓いが終了したあとは、直会があり、河合宮司様に一献差し上げてご挨拶申し上げ帰ってきました。伊勢御遷宮お白石持ち神事以来!いつもお世話になっており、妻共々感謝です。(礼)

 

元始祭が始まってから、天候が雪から晴れへと変わりました。これはまた不思議なことだなあ!と思い。「ありがとうございます。」と、ひとりつぶやくのでした。^^


僕がウイスキーが好きなわけ。

毎夜、録画したNHK朝ドラを見て楽しんでいます。『マッサン』は、

日本のウヰスキーの父!と呼ばれた竹鶴政孝とスコットランド出身の妻

リタ夫婦をモデルにしています。

 

北日本新聞発行のまんまる1月号通巻128号より一部引用致します。

 

(一部引用転載開始)

 

  運命のスコットランド留学

広島県の酒造業の家に生まれた竹鶴政孝は学生時代から洋酒に興味を持ち、大阪の摂津酒造に入社した。やがて社長に認められ、大正

7年(1918)24歳でスコットランドに留学。グラスゴー大学に学び、蒸溜所で実地研修をして本場のウイスキー製法を体得していく。あるとき柔道の指導を頼まれ、訪ねた家で運命的にリタと出会う。リタは政孝の魅力にふれ、抱く夢を一緒に叶えたいと共に生きることを選び、周囲の反対を押し切って結婚。政孝は新妻と大正

9年(1920)に帰国。第一次大戦後の不況の中、摂津酒造はウイスキー製造を断念。政孝は辞表を出し、しばらく浪人生活を送った。その後、別の酒造会社に籍を置きウイスキー製造に貢献した。そしてついに独立し、自身が理想とするウイスキーづくりという夢を叶えるため北へ旅立った。

 

  夢を追い北海道余市町へ

北海道積丹半島の付け根、余市町。寒冷で適度な湿度があり、良質な水、ピート(泥炭)も豊富なその地で、政孝は昭和9年(1934)「大日本果汁株式会社」を設立。リンゴジュースなどを製造しながら、熟成に時間がかかるウイスキーの原酒をつくり続けた。そして昭和15年(1940)ついに第一号ウイスキーが誕生し「大日本果汁」を略して「ニッカ(日果)ウヰスキー」と命名した。終戦後の昭和24年(1949)に種類は自由販売となり、市場は模造ウイスキーで賑わった。しかし政孝は品質第一の姿勢を貫き、社員は強く結束して原酒を守りぬいた。

 

  受け継がれる品質主義

夫を「マッサン」と呼び、日本料理の名人にまでなったリタ。日本人よりも日本人らしく夫を支え、昭和36年(1961)64歳でこの世を去る。リタを失った政孝は貯蔵庫でテイスティングに没頭し、翌年選りすぐりの余市蒸溜所の原酒をブレンドした「スーパーニッカ」続いて「ハイニッカ」を発売。どちらも好評を得て「ニッカ」は全国ブランドへと成長していく。余市蒸溜所では今も石炭による直火蒸溜を行なっている。ウイスキーづくりの原点と、品質第一主義を受け継いで歩み続けるニッカ。晩年、政孝は病床でも水割りを飲み、まさに最後までウイスキーと生き、昭和54年(1979)85歳の生涯を閉じた。今は最愛の妻とともに余市蒸溜所を望む墓地に眠る。

 

(一部引用転載終了)

 

日本人より日本人らしいエリーことリタさんが亡くなって53年が経過しているのですね!?僕が生まれたのが昭和36年(1961)ですから暗算より容易いですね。それにマッサンと同じく柔道をしていたということ。^^

 

僕がウイスキーを好むのもマッサンとリタさんの意思を継いでいるのかもしれない・・・・!?「うん!きっとそうだ。そうに違いない」

 

「そんなわけないでしょ!」^^

 

  


討ち入り当日!

城明け渡しより、長きにわたり秘めた思いを胸に愈々!今夜決行です。失敗は許されません!

 

左上の写真は、小屋に潜む吉良上野介を引きずり出し取り囲み、そしてご生涯を迫る一枚です。ここでも上野介は有るまじき行動に出て内蔵助の「卑怯!」という言葉と共に、ご主君最後の短刀にて胸を突かれ絶命します。まさか!こんなことになるとは思ってもいなかっただろうと思いますが、すべて自分自身が引き起こしたことであり自業自得!因果応報!と上野介も認めたことでありましょう。

 

映画では脚色されている場合が多く、討ち入りの装束も火消のいでたちが数名とあとはバラバラであったらしく、山鹿流の陣太鼓も実はドラであったのかもしれない!と聞いています。

 

しかし、赤穂事件は作り話ではなく事実あったものです。浅野長矩の他にも御馳走役をいじめていたという記録も残っています。師走に入り一年を振り返り!ひと様に気に障る言動がなかったか!?卑怯な振る舞いはなかったか!?立ち居振る舞いをもう一度厳しく見直すことの出来るように!『年末にかけての放送を復活させてほしい』と、討ち入りそばを食べ乍ら思っている次第です。拝、

 

 

 


討ち入り前日!

今日は討ち入り前日です。47名はどのような思いで過ごしたのだろうか?大石主税などはまだ16歳、矢頭衛門七18歳である。

 

「武士たる者は正にそういうものなのである」と二人の若者に一喝される53歳の今の僕がここに居るのでした。左上の写真から聞こえてくるのは!?「鬼さんこちら♪手の鳴る方へ♫」京都山科に住まいを移した大石内蔵助が、敵を欺く為に目立ち過ぎるくらいに遊ぶ姿を見せつけている一枚です。

 

それだけに止まらず大切な家族を守る為に、母様をはじめ奥様までも欺こうとする姿に涙が溢れ、胸の奥そこが痛みそして響きます。

自分自身に当てはめて見てみても果して出来るだろうか!?

 

大石内蔵助の同士の方々に対する立ち居振る舞いと思いやりのあまりにもの大きさに、日本人の真髄を見たような気がします。(礼)

 

愈々!明日討ち入りです。

 

 


討ち入り二日前!

今日は赤穂事件の二日前です。大石内蔵助の「大義ある討ち入りでなければならない!盗賊の如き襲撃であってはならない」の言葉に冷静さを取り戻した浪士一同は、当日その時まで只管!我慢したのです。

 

血気盛んの屈強な若者をここまで統制する城代家老大石内蔵助の人間性は、正にひとの上に立つに相応しい人物であることは日本中のひとが認めていると僕は思います。

 

47名に絞り込むまではアノ手コノ手で振り回し、篩に掛けて選りすぐりの同士を集めていく才能の凄さに、日本男児として何ともいえない胸の高まりを感じます。

 

幕府側用人柳沢吉保の歪んだ権勢は、家康公の定めた「喧嘩両成敗」をも歪めてしまう大失態!勘違いをした偽権力者は、お金によって身を持ち崩すのである。いつの世も同じなのかもしれませんね!(笑)

 

犬公方徳川綱吉と側用人柳沢吉保では、世の中を牽引するに相応しい筈もなく!今の世の中とも照らし合わせて考える必要がありそうですね!そう二日後に正にその時がやってくるのですから・・・。

 

赤穂事件も「いじめ」の一端から大事に発展したのかもしれず!また『塩』が絡んだのかもしれず!?喧嘩相手に「塩を送っておけば

良かったのじゃ」息子の上杉さんも後になって気づいたのかも!?

 

 

 

 


もうすぐ12月14日です!

もう少しで12月14日です。最近はあまり放送されなくなりましたが『赤穂浪士』『忠臣蔵』すばらしい日本映画が、毎年師走に入ると必ずあったものです。

 

元禄15年12月14日深夜に赤穂浪士47名が、吉良上野介邸に押し入り!上野介を殺害し、ご主君の仇を討った。という赤穂事件を映画化したものです。武士として!いや、日本人として今!最も学ばなくてはならないことがぎっしりと詰まっています。そのひとに応じた対応や儀礼など、守秘に至るまで、何が何でも屈しないこころ・・・。

 

今は衆議院選挙の真っ只中の為、14日の話題はそちらばかりとなっていますが、やはり!忘れてはならない赤穂義士の話をもう一度!いや毎年この時期に語り、日本人の大切なものを忘れないようにしたいと思います。

 

義士の中で足軽であった為に大石から別命を託された寺坂吉右衛門が討ち入り直前に逃亡したかつての盟友、瀬尾孫左衛門と16年ぶりに再会!孫左衛門もまた大石から別命を受けていた。という作品『最後の忠臣蔵』も、ひとの凄さを見せつけられる逸作です。

 

左上の写真は、江戸城西の丸大手門です。上に立つ者がしっかりと英断をしていれば赤穂事件は無かった。上に立てるひとをしっかりと見極めなければならない!ということなのかもしれませんね!?^^

 

討ち入りそばを啜りながら、改めて映画鑑賞しようと思ってます。

 

 

 

 

 


うれしい記憶!

師走の1日に新嘗祭に参拝させて頂いてホッ!としていましたら、頭の中に神宮の御遷宮!お白石持ち行事の記憶が鮮やかに浮かび上がりました。特別神領民として白装束に身を包み、7月の暑いさなかをひたすら歩み、手にした白い布で包んだお白石を左の写真!御正殿の幕の内に進み、奥へとお白石を運びます。そして然るべきところに納めて御正殿向正面から退きます。妻と共に大きな感動に震えたものです。

 

河合宮司様には10数年前から参加へのお願いをし、昨年無事務めさせて頂いたことは、今でも誠にありがたく感謝の思いでいっぱいです。ご一緒したみなさんもお元気だろうか!?また何処かでお会い出来るだろうと感じてはいます。今回、新嘗祭に参拝して河合宮司様のお顔を拝見し、暫しうれしい記憶に浸っている次第です。

 

 


今月の了寛さん!

今年最後の柴田接骨院待合室を飾る『今月の了寛さん』は上にあるこの一枚です。「わかってはいるのにやってしまうんです!?」「いい気分になるとついつい云ってしまうんです!?」「あ~っもう何でやろ!」植木仁さんの声が!アノ唄が聞こえるのは何でだろう!?

 

この一枚は、僕自身を戒める意味で選んだようなものなのです。目にする場所に!只、そこにあるだけで変われるような気が確かにするのです。本気で変わりたいのです!^^

 

そうすればついてきます。

「え!何がついてくるんだろう!?」

 

『コラ、アカン!』チョット意味深かも?^^


新嘗祭に行きました。

本日、午後2:00より誉建神社に於いて新嘗祭が厳かに執り行われました。お昼休みを利用して参拝してきました。

 

河合宮司様をはじめ、地区のお歴々がズラリと集まられており、少々緊張気味で末席にてお祓いを受けさせて頂きました。太鼓の音は拝殿の空気を振るえさせ!凛とした清浄なものになってゆくのをこの身で感じます。祝詞に雅楽にと日本人として最も大切な「こころ」であると感ずるのです。

 

今年もおかげさまであと1ヵ月となりましたが、五穀豊穣に感謝し生活をしていきたいと思いました。

 

ありがとうございます。