西郷隆盛の最期
以前に西郷隆永の名で紹介した「西郷どん」も昨日で最終回。早いものですね!西郷どんの最期に涙が止まりませんでした!左の写真は、中央が西郷どん、向かって左が大久保さあ、右が弟の従道が写っています。これはフルベッキ集合写真という幕末志士が写っている貴重なものです。実は、従道の横に別府晋介という人物が写っているのですが、この人物は人斬り半次郎と呼ばれた男!中村半次郎こと桐野利秋の母方の従弟で、西郷どんに「晋どん!ここいらでよか」と、いわれ「ごめんやったもんせ」の言葉で西郷どんを介錯しました。西郷隆盛の最期を知る人物です。
賊軍の総大将を撃った人物の名前が出て来ないのはどうしてか?と言われれば、僕は功績ばかりではなく人間的にも多く慕われた西郷隆盛を撃って軍功を立てて名を残すということを人として出来なかったのだろう。と、僕なりに推察しています。それほどの大人物!西郷隆盛なのです。
今回の「西郷どん」は細かなところまで再現されていて凄かったですね!西郷どんの右額の毛の薄さは、キセルの頭を右額に近づけるために薄くなっていたものです!まさかそこまで再現していたなんて。「凄い」です!!
そうした西郷隆盛の死は、国父久光公と島津忠義公の髷にも影響を与えていたのかもしれませんね。(僕の推察です)
ありがとございもしたあ。
柴田佳一 拝、
島津公の髷!
薩摩藩、鹿児島藩最後の藩主「島津忠義公」です。前藩主斉彬公の弟、久光の子でしたが、斉彬公の遺命により養嗣子となり、父久光を差し置いて襲封します。尊敬する父への配慮から、後見となる父久光を「国父」とし、礼を持って厚遇しました。父久光は、急速な欧化政策に反対!明治維新後も新政府にあくまで同調せず、大名の体質を捨てきれず生涯、髷を落としませんでした。
最後の藩主、島津忠義も尊敬する父久光「国父」の意思を尊重し、明治30年に世を去るまで、父に倣い髷のままで生涯を通したのです。享年57は、今の僕の年齢です!「男です」「お見事です」僕もきっとそうしたと思います。
西南戦争政府軍
「西郷どん」で西南戦争が放送されました。西郷どんと桐野利秋は賊軍とされるなか討死します。写真がその相手の熊本鎮台の政府軍です。中央が、谷干城(たに・たてき)3万以上に膨れ上がった西郷隆盛率いる薩摩軍は、熊本城鎮台を攻撃。しかし50日を経過しても攻め落せません。そのうち逆に7万の新政府軍に追われ敗走します。16日(日)「西郷どん」の最終回で、ラストサムライ西郷隆盛と人斬り半次郎こと桐野利秋が武士としての最期の戦と位置づけ死を迎えます。
谷干城(たに・たてき)
天保8年(1837)~明治44年(1911)写真中央の人物
土佐藩士。尊王攘夷論者であったが藩命で上海に出向いたことをきっかけに攘夷を捨てる。東征で軍功をたて、明治維新後は陸軍少将、熊本鎮台司令長官。熊本籠城戦で薩摩軍の猛攻をしのぎ、陸軍中将となった。
もうすぐ最終回!みなさん『おやっとさあでしたあ』
夜に爪は切らぬもの!?
僕は子どもの頃から「夜に爪を切ると親の死に目にあえない」と言われて育ちました。今の子どもたちは知らないのかもしれません。では、どうしてそう言うのか?と聞かれると「縁起が悪いのだ」などと言ったりすると『ボーッと生きてんじゃねぇよ~』と、5歳の女の子に叱られそうですね。夜に爪を切ることは「世詰め」といって自分自身が若くして亡くなる。要するに親より先に死を迎える為に「親の死に目にあえない」と言うことなのです。親不孝にもなりかねませんので『夜に爪は切らぬもの』と昔から言う事に噓はないのだそうです。
分かっていそうで分かっていない自分自身で苦笑いするのでした。^^
砺波市の誇り
今日の北日本新聞30P(社会・地域ニュース)に全国消防操法大会の報告会の記事がありました。富山県代表としてポンプ車操法の部で2位となった砺波市消防団庄下分団と、小型ポンプ操法の部で優良賞となった砺波市消防団栴檀山分団の両団員が21日、砺波市安川のロイヤルホテル富山砺波での報告会で関係者約200人に感謝と今後の抱負を語られました。初の富山県での大会で、それもアベック出場となった砺波市消防団の喜びは半端ないものであったろうと推察しています。僕自身も若かりし頃に小型ポンプ操法を経験しています。あのキビキビとした動きと連帯感!見た者すべてひとつになるような感覚になります。世の為、ひとの為に頑張る姿は「日本人の精神」ともいえます。忘れ去られぬように思い出させてくれた全団員の皆さんは砺波市の誇りだと僕は思います。