今日から11月です
今日から11月です。八百万の神々が出雲からお帰りになられ、何故か賑やかな感じがするのが不思議ですね。早速!昨晩に神棚を整え、令和1年11月1日の1・11・1ということで、祝詞を上げさせて頂きました。清々しい気持ちにて残り61日を過ごさせて頂きたいと思います。いつも本当にありがとうございます!感謝。この子と記事は無関係です。^^富山県 柴田佳一 深拝、
御即位の日に龍
即位礼正殿の儀が行われる10月22日AM10:00頃に柴田接骨院前の上空に出現した龍雲です!もう10秒早く見つけていれば、もっと凄かったと思います。角が生えていたのが、チョット離れていて残念。胴体も長く本当に「龍」なのです!雨の予報が晴れになったことも併せて「天の計らい」を強く感じた次第です。
ラストサムライ
上総国請西藩主であった林忠嵩は、将軍徳川慶喜が大政奉還をしたことで脱藩を決意します。お殿様が脱藩したのです!藩兵を率い、伊庭八郎・人見勝太郎ら旧幕臣遊撃隊と共に官軍と戦います。
その後、東北・越後諸藩と奥羽越列藩同盟を結成し、新政府に対抗姿勢を鮮明にしました。明治元年(1868)4月、新政府軍は東北に侵攻し、東北戦争が始まりました。徳川家一の臣として主家の危機に立ち向かう決意のもと仙台藩と共に進撃しましたが、新政府軍の大砲の音に逃亡する仙台藩兵!仙台にて降伏。
降伏後、唐津藩内に禁錮されましたが明治5年に釈放されます。その後北海道の商家、剣術を教えるなど苦難の20年を過ごされますが、明治27年に男爵を授かります。亡くなる前に「辞世の句は?」と尋ねられ『明治元年にやった』と答えられたといいます。その句とは『真心の あるかなきかは ほふり出す 腹の血しおの 色にこそ知れ』です。
林忠嵩 嘉永元年(1848)~昭和16年(1941)
亡くなられた後、新聞に「最期の大名」として写真と記事が掲載されました。正に「ラストサムライ」と呼ぶに相応しい方であったと思います。いつの日か、大河ドラマになってほしいと僕は願っています。
初代金閣寺の写真
京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院で正式には鹿苑寺。相国寺の塔頭寺院のひとつ。舎利殿「金閣」が有名であることから「金閣寺」と呼ばれている。鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされている。金閣を中心とした庭園と建築は極楽浄土をこの世に表したとされ、有名なあの一休禅師の父、後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した。この時代の文化を「北山文化」という。足利義満の死後、遺言によりお寺となり、無窓国師を開山とし足利義満の法号「鹿苑院殿」の二文字をとって「鹿苑寺」と名づけられた。
写真の「金閣寺」は応永5年(1398)創建のものです。残念なことに昭和25年(1950)に起きた放火で全焼した。現在!復元されている「金閣寺」には、写真に写る各階の屋根を支える柱がない。
極々
霊峰立山連峰の剣岳です。以前の修験者は全く何も取り付けられていない険しい剣岳に臨み、2999の頂きにて登拝されたのです。そのおかげで地震や台風などの災害から護られているのだと、僕は子供の頃からそう信じています。早朝に東の空を望みますと真っ赤な太陽が立山連峰から昇ります。その光景は何とも言えない神々しさを放っています。周囲ではそれを目にすると、自然と手を合わせている人が多く見られます。それも極々自然に・・・。
海に行きました
お盆も終わった18日の日曜日!氷見市へと海に出かけました。我が家では、1年に一度は必ず海に入り、禊をするようにしています。昔から赤ちゃんが産まれたら海に出向き海水につけるという風習が富山には存在します。このことを行なうと風邪もひかない健康体でいられるというもの。