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巴御前の生涯

木曾義仲公が巴御前に落ち延びるよう命じているところです。義仲公は、自害する場所を探していた処!馬が湿地に脚をとられ、そこに矢が放たれ絶命したと伝わります。巴御前は義仲公の命を受け落ち延びましたが、鎌倉の頼朝に呼び出され和田義盛の妾となります。『鎌倉殿の13人』のひとりですが『武骨さ』を和田義盛にも感じています。和田合戦の後に源平合戦俱利伽羅峠の戦いで共に戦った石黒氏を頼り、越中國福満(富山県南砺市福光町)に身を寄せ、尼となり木曾義仲公と和田義盛の霊を弔いながら91歳の生涯を終えたと伝えられます。「巴は義仲に従い源平砺波山の戦の部将となる 晩年尼となり越中に来たり九一歳にて死す」(巴塚碑文)木曾義仲公は31歳の生涯であり、巴御前は義仲公の分まで懸命に生き切ったのだと僕は思います。そして青木崇高さん秋元才加さんお疲れさまでした。 


鵯越え

1184年3月、摂津國福原及び須磨で行なわれた源平合戦のひとつ一ノ谷の戦い。平家軍が陣を張るのを見おろす義経です。あり得ないことに、この断崖を駆けおり、平家軍を圧倒します。後白河法皇との謀略もあり武士として、義仲公だったら「義」は何処にあるのか?と激しく詰問されそうな気がしています。断崖を駆けおりたとされていますが、当時の馬は今のようなサラブレッド種ではなく、小さい馬!ロバくらいでしょうか!?埼玉県深谷市にある馬を背負う畠山重忠の銅像は、馬がサラブレッド的な大きさなので、力強さを感じます。しかし大きすぎて駆けおりることは難しいと思います。小さい馬だからこそ鵯越えの逆落としが出来たのだと僕は思います。だけど、凄いですね!!


義仲公は益荒男です

昨日は、小矢部市ゆかりの旭将軍木曾義仲と巴御前をテーマとした「木曾義仲×巴御前プレミアムトーク」がクロスランドおやべで開催されました。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で義仲の青木崇高さんと巴の秋元才加さんが、義仲の魅力について語られました。青木さんは「知的でかっこよく、歴史的に評価されるべき人」秋元さんは「真っすぐで筋を通す姿は美しい。巴御前としてお仕えできるのは幸せ」と。最後に義仲が挙兵の際に言った「これは正義の戦である。義は我らにあり」と、木曾義仲公になり代わり、青木崇高さんが叫びプレミアムトークを締めくくりました。やはり今を時めくお二人に一目会いたいと850人が足を運ばれました。僕も851人目になりたかったなあって思いました。最後に僕もなり代わってひと言!『褒美など要らぬ、武骨者で何が悪いっ』義仲公は益荒男です。

 


義仲と巴が小矢部に!

小矢部市制施行60周年記念事業として、「木曾義仲×巴御前プレミアムトークin富山県小矢部市」が4月24日㈰、クロスランドおやべにて開催されます。『源平の乱世、俱利伽羅峠で繰り広げられた歴史的な戦の主人公・木曾義仲とその将・巴御前。このたび、木曾義仲と巴御前にゆかりのある俳優、青木崇高さんと秋元才加さんをお迎えしてプレミアムトークを開催いたします』ということで楽しみにしていたら、事前に申し込みの必要があって、その応募締め切りが3月25日でありました。とても残念!パネラーとして(富山大学講師/大河ドラマ『鎌倉殿の13人』NHKで時代考証を担当)長村祥知さん(埴生護國八幡宮宮司)埴生雅章さん(南砺市文化・世界遺産課主幹・課長補佐)佐藤聖子さん。司会は(歴史タレント)小栗さくらさんです。また小矢部市のみなさんにお話しを伺いたいと思っています。


木曾義仲と越中武士団

源平合戦俱利伽羅峠の戦いの白馬に巴御前と中に木曾義仲の勇猛果敢な姿です。平家の大軍勢をものともせず押し出す義仲軍と、越中武士団の宮崎氏、入善氏、郷党の石黒氏、野尻氏、河上氏、土地勘豊かな蟹谷次郎、石黒太郎光弘、福満五郎、千国太郎真高、向田二郎村高、水巻兄弟の四郎安高、小太郎安経、加茂島七郎、池田次郎忠康らが続きます。八幡宮で祈願し劇的勝利を飾った義仲の軍勢!蟹谷次郎の勝鬨太鼓が響き渡り、そして美酒に酔い、こころ躍るままに踊ります。このときが越中武士団にとって最大一の誉であったと、僕は胸が熱くなり涙が流れます。(感動)


わ~ぁ~きれい!

富山県小矢部市埴生にご鎮座になる『埴生護國八幡宮』参拝と『日本一源義仲公騎馬像』を目にしたあと、歴史国道「俱利伽羅越えいにしえの街道」を進んだところに写真の枝垂桜と花桃が迎えてくれました。枝垂桜さんのほのかなピンク色が、花桃さんの色に控えめな枝垂桜さんは白くなり、まるで紅白になって視界に入ってくるようです。「わ~ぁ~きれい!」とスマホで撮っておられる女性もあり、僕も近づいて撮ってみた次第です!青い空が両者の色を引き出しています。本当にきれいですね。^^/


木曾義仲と石黒太郎光弘

1183年源平合戦俱利伽羅峠の戦いで、木曾義仲公と共に平維盛率いる大軍勢と戦った石黒太郎光弘が1184年(寿永3年)に築城した「木舟城」です。俱利伽羅峠の戦いから1年後の築城とは、しかもこの時代に平城(平地に築かれた城)とは凄いです。以下、北日本新聞さんの「とやまお城探検隊186木舟城①高岡市」から、引用転載させて頂きます。

(引用転載開始)

木舟城は1184(寿永3)年、国人(在地の領主)の石黒太郎光弘が築城したと伝えられています。その後、石黒氏は砺波郡の有力者へと成長し、1576(天正4)年ごろには石黒成綱が越中を制圧した越後の上杉謙信の配下に入り、大きな繁栄をもたらしました。しかし、謙信が急死すると、石黒氏は織田方に寝返ったため、上杉方より木舟城を追われてしまいます。信頼を失った石黒氏は信長に近江長浜で討たれ、滅亡しました。1585(同13)年8月、木舟城に前田利家の弟・秀継が入城しますが、11月に発生した天正の大地震により城主夫妻が命を落とすなど、甚大な被害を受けます。翌年、城主だった秀継の子、利秀は今石動城(小矢部)に移り、木舟城は廃城となりました。(田上和彦・高岡市教育委員会文化財保護活用課主任)

(引用転載終了)

源平合戦俱利伽羅峠の戦いで、木曾義仲公に加勢して平維盛の大軍勢 を夜半に急襲し、怯むことなく押し出して大勝利!このことは城主石黒太郎光弘にとって、途轍もなく大きな自信となったことだろうと僕は思います。


埴生護國八幡宮参拝

富山県小矢部市埴生にご鎮座になります『埴生護國八幡宮』に参拝しました。源義仲公が戦勝祈願して、近くに本陣を張ったと伝わります。百三段の石段を踏みしめて拝殿の前に立ちますと、正に凛とする空気に包まれる感じがして、何故か不思議と清々しく、そして背中がシャキッとする気がします。4月10日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源平合戦俱利伽羅峠の戦いはありませんでしたが、エンディングには義仲公の騎馬像や、当八幡宮に火牛像などが紹介され、嬉しくて涙が流れました。いずれまた時間をつくって「俱利伽羅いにしえの街道」へと、義仲公と越中武士の足跡を辿りたいと思います。「ありがとうございます」感謝です。


埴生護國八幡宮御神木

日本一義仲公の銅像を見上げてから、とやまの名水「鳩清水」にて身を清めます。一礼して鳥居をくぐり、百三段(かつては百八段)の石段を踏みしめて上りますと、左側にこの御神木があります。見上げますと義仲公を見上げた時と同じく圧倒されます。富山でも注目される源義仲公と巴御前。長野県では、大関御嶽海関に続いて、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の木曾義仲公にも大注目しておられるのではないかと思います。


日本一の木曾義仲公騎馬像

富山県小矢部市埴生にご鎮座になります『埴生護國八幡宮』の境内にある日本一の源義仲公の銅像です。騎馬像としても全国有数のもので、昭和58年に源平合戦俱利伽羅合戦八百年祭を記念して建立されました。1,183年5月小矢部市埴生に陣をとり、俱利伽羅山に2倍の軍勢を布く平維盛の大軍と決戦するに当り『埴生護國八幡宮』に祈願を込め、著しいご霊験があったことは歴史がそれを物語っています。今日のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はどんなだろう?(国指定重要文化財社殿)