無欲になるということは、口にすることは容易いが、これほど難しいことはない。
死ぬ気でやってみろ。と言われたことはあるが、本当にやれるのだろうか。
今から35年前に富山県高岡市にある臨済宗国泰寺にて修行をした時に、不思議な体験をしたことがありました。
座禅を早朝と夕刻に行なっていましたが、なかなか頭の中の邪念が取れずに只、黙々と座禅を組んでいました。7月から8月にかけての
修行でしたので暑く、やぶ蚊に悩まされ集中力処ではない程です。
然し、何日も行なっているうちに一度だけ、本当に一度だけ全くの『無心』になれたのです。暑くもなければやぶ蚊に刺されていても感じないという不思議な感覚だったことを今もハッキリと記憶しています。
なかなか『無心』になれずに只管座禅を組むのですが、暑さややぶ蚊に悩まされ、集中力を欠く毎日で、雲水さんに何度も警策にて喝を入れられる有様でした。
その日は、早朝から何故か不思議と焦りが無く、淡々と与えられた
仕事をこなしていたと思います。35年前の記憶なのですが鮮明なままなのです。後にも先にも一度だけなのですから。
夕刻の座禅が始まりました。足を組み印を結んで脚の上におきます。その後の記憶がありません!寝てはいません!呼吸もしていたのか判らない!途中休みの記憶もないのです。
座禅が終了した時の充実感は、もう何とも言えない落着きというか
こころの平安とでもいうのか?まだ続けていたい。その時に戻りたいとさえ思いました。厳しかった雲水さんが優しい目で微笑んでくださったのが印象的でした。
ほかの方々に体験した話をしてみましたが、その時『無心』になれたのは僕だけのようで、蚊に刺された話や痺れが辛かったという話ばかりで、その時以外の僕の体験と同じものでした。
もう一度『無心』になりたくて、自室に籠って座禅を組んでみても
時計の音や車の音が気になって、とてもじゃないがアノ体験は出来ません。
一緒に座禅を組んだ方々に「もう一度組まないか」と誘ってみた事がありますが「つらいから」と断られます。(笑)
やはり、ひとそれぞれ違いがあるように百人居れば百通りです。だけど座禅を組んで、自分自身を見つめたい!というひと達が増えています。
今度は、もう一度体験してみよう。とは思わずに『無心』で座禅を楽しんでみたいと思います。